歌劇「さまよえるオランダ人」(初演1843年ザクセン宮廷歌劇場)
◎作品の成り立ち
「さまよえるオランダ人」伝説の起源は古く、古代ギリシアのオディセウス物語や中世の「さまよえるユダヤ人」伝説からきているものと思われますが、実際にオランダ人伝説として広がったのは、17、18世紀のオランダ・イギリス通商戦争時だとされています。特に19世紀になってからはさまざまな文学作品でもとりあげられました。
ワーグナーもリガの楽長をつとめていた時期(1837年〜1838年)にハインリヒ・ハイネの「フォン・シュナベレヴォプスキ氏の回想」を読み、オランダ人伝説に興味を抱きました。
その後リガの楽長の地位を追われたワーグナーは、債権者からの取立てをのがれるため、パリへ逃亡することを決意します。海路でロンドンを経てパリに入港する経路を選んだのですが、当初8日間の予定だった航海中に待ち受けていたのは死を覚悟するほどの嵐による3週間もの漂流でした。このときワーグナーの頭にはかつて読んだことのあるハイネのオランダ人の物語の情景がいきいきと現われ、これをオペラ化することを決心したのです。
パリは当時オペラの中心地でワーグナーが逃亡してきたのもここで一旗あげてやろうという希望を持っていたからでした。さっそくワーグナーは当時オペラ界の第一人者だったマイヤーベーアに会って「恋愛禁制」の上演を依頼しますが上演目前で劇場が倒産してしまいます。さらにパリのオペラ座の劇場運営の腐敗や自作の管弦楽曲の不評など次第にワーグナーはパリに失望していきます。
いっぽうでベルリオーズやリストといった著名人との交流が出来たことは意義深いものがあり、ここでワーグナーはハインリヒ・ハイネとも出会いオランダ人伝説のオペラ化について様々な意見を交わし「さまよえるユダヤ人」伝説を始めとする複数の素材を見出しました。さらに登場人物にエリックというゼンタを愛する若者を登場させることによりオランダ人とゼンタの関係をより劇的に描こうとするワーグナー独自の構想も盛り込まれました。
「恋愛禁制」に続き、パリ上演を意図した次作「リエンツィ」も全く上演の見込みがなく、長大な作品での上演は無理であると悟ったワーグナーはついに一幕劇「さまよえるオランダ人」の草稿に着手し、マイヤーベーアの推薦を得てオペラ座に提出しました。
しかしオペラ座はこの台本のみを買い取り、題名は「幽霊船」とされて作曲はオペラ座の指揮者ディーチュに委託されてしまいます。(※1)それにもめげずワーグナーは自身の「さまよえるオランダ人」を作曲し完成させます。(※2) (※3)
そして、もはやパリに希望を全く見出せなくなったワーグナーは、「リエンツィ」をドレスデンのザクセン宮廷歌劇場が採用したという話しを聞きパリを離れます。
ドレスデンでの「リエンツィ」は大成功に終わり、ワーグナーの作曲家としての道はここではじめて開かれ、その勢いで「さまよえるオランダ人」はドレスデンで初演されました。
初演はそこそこの成功を収めたものの「リエンツィ」のような熱狂を得ることはできず、4回で打ち切りとなりました。その他ベルリンやハンブルクなどで上演されたもののたいした成果はなく、その後は1865年に再演されるまでドレスデンでこの作品が取り上げられることはありませんでした。
旋律重視のオペラに慣れていた当時の観客にとってはこの作品の陰鬱な印象になじめなかったのです。この点についてはシューマンも指摘しています。またベルリオーズは作品を認めつつもトレモロの多様に難を指摘しています。
◎作品について
ワーグナーはこの作品を作る以前に「妖精」、「恋愛禁制」、「リエンツィ」の3つの歌劇を作っています。「妖精」はワーグナーの生前に初演されることはなく、「恋愛禁制」もマグデブルクでの初演の出来が酷いものだったためその後生前には上演されていません。「リエンツィ」は初演で大成功をおさめ、その後もドレスデンを中心として人気演目として多く取り上げられましたが、初演時からワーグナー自身もどうしてこんなに成功したのか理解できず、むしろその内容に比して演奏時間が長すぎると感じていました。
またこれら3作とも従来のオペラや当時流行していたパリのグランドオペラの模倣の域をこえるものではなく、内容的にも以後のワーグナー作品の特徴である「自己犠牲」や「同情」といった精神は表れていません。
それに対し、この「さまよえるオランダ人」にはゼンタのオランダ人に対する「同情」からくる「自己犠牲」が盛り込まれており、ワーグナーの独自性が現われた最初の作品となっています。また従来のオペラが「番号オペラ」といわれ20、30曲のアリアをレチタティーヴォ(語り)でつなぐといったものだったのに対し、この作品では全体がたった8曲で構成され、それらはアリアではなく場面によって区切られています。さらにレチタティーヴォを一切廃止したため、結果として曲から曲へ切れ目なく移りかわることになりました。これは音楽と台詞との連関性を最も重視したワーグナーならではの考えで、楽劇の原型といえるものです。
また、台本を自分で書くという点もワーグナーのこのような考えに基づくものでした。当時の批評家は作曲者と台本家が同じである点を強く非難しましたが、ワーグナーの考えは全く揺るぎませんでした。この作品を完成した後、ワーグナー自身はこう語っています。「今や私にとって他人の書いたオペラ台本に作曲することは全く不可能でしょう。まず私がひきつけられる素材というのは単に詩的な意味ばかりでなく、音楽的意味を持つものでなければなりません。詩を書き下ろす前に、いやそれどころか場面の情景を構想する以前に私は私の創作の香気の中にいるのです。私はもうすべての音、すべての特性的動機をもっているのです。」
他にも、徹底的に「オランダ人のモチーフ」とゼンタの「救済のモチーフ」を駆使して全体をまとめ上げているのもこの作品からで、この技法は「ニーベルングの指環」にて頂点に達します。
音楽面においては「序曲」での自然描写や「水夫の合唱」などはウェーバーの「魔弾の射手」の「狼谷の場」や「狩人の合唱」を彷彿とさせドイツオペラの伝統を継承していることを感じさせます。
しかし一方で「水夫の合唱」のあとにくる水夫たちとオランダ船の船員たちとの掛け合いの場面は天才的としかいいようがありません。異なる2つの旋律をこれほど巧みに重ね合わせながら、そこに生じる不協和音も見事に生かしきった場面というのはワーグナー全作品の中でも最高のものでしょう。
後の1877年にワーグナーは、将来的にはバイロイト音楽祭で「さまよえるオランダ人」以降の作品を上演し、これらの作品の模範的な上演を示したいという希望をバイエルン国王ルートヴィッヒ二世に公表しています。
このことからも分かるように「さまよえるオランダ人」はワーグナー作品の出発点となる要素を多く含んでいる非常に意義深い作品です。
(※1)フランスではワーグナーの台本にデーチュが作曲した「幽霊船」が先にオペラ座で上演された名残で、今でもワーグナーの「さまよえるオランダ人」は「幽霊船」という題名で呼ばれているそうです。ちなみにデーチェ作曲の「幽霊船」は11回の公演のあと忘れ去られました。
(※2)当初は一幕劇として作られたこの作品は、初演時は当時のドレスデンの劇場の慣習により3幕劇に分割されました。しかしその後1901年にはバイロイトにて当初の構想どおり1幕劇として上演され、現在はこのかたちが一般的になっています。
(※3)ワーグナーは1860年にこの曲の序曲とフィナーレに「救済のモチーフ」を加えることにより、一層この作品の「自己犠牲」の精神を強調しています。