歌劇「ローエングリン」(初演1850年ワイマール宮廷劇場)

◎作品の成り立ち
 ローエングリン伝説は13世紀にドイツやフランスにおいて広く知られていったものです。ワーグナーはこの伝説について最初のパリ滞在時に友人のレールスより教えられ、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルツィファル」やグリム兄弟の「ドイツ民話集」などを参考にして、ドレスデンへ戻った後の1845年に台本を書き上げました。この作品の素材の中心になっているのは「聖杯」伝説と「白鳥の騎士」伝説です。

「聖杯」伝説とはイエスが最後の晩餐に用い、その後十字架で処刑される際にその血を受けたとされる聖なる杯にまつわるものです。その後この杯はイエスの弟子が持ち帰り、後世に伝えていましたが、やがて天上に消えてしまいます。しかしある時、この聖杯は天上から天使の群に守られて地上に下り、スペイン北部のモンサルヴァートという城に安置されます。そしてこの城で聖杯は聖杯騎士団によって守られており、彼らは聖杯によって日々の食糧を与えられ、その加護を受けて各地に派遣され悪を滅ぼすという任務を帯びているのです。

 もう一方の「白鳥の騎士」伝説は、民が苦難に陥った時、どこからともなく白鳥の曳く小船に乗った騎士が現われて悪人を平らげ平和を確保する話です。

 以上のような伝説にワーグナーは歴史上の事実をたくみに織り込ませています。こうした史実との対比によってローエングリンの登場はより一層神秘的なものとなり、劇的効果はさらに高まるものとなったのです。このような技法は「タンホイザー」におけるヴァルトブルクとヴェーヌスベルクの対比を引き継ぐものと言えます。

 さて、このように台本は完成されたのですが、作曲の方はなかなか進みませんでした。台本の朗読会でシューマンが「台本は気に入った。しかし彼がこれをオペラとしてどう作曲するのか私には理解できない。」と語ったように、これまでの作品とは比べ物にならないくらいの神秘性を帯びたこの作品は、作曲上ワーグナーを多いに悩ませました。

 ワーグナーは第三幕の「聖杯語り」から作曲を始め、そこから一幕、ニ幕へと構想を広げていって1848年に2年がかりでようやく完成しました。

 その年の9月にはドレスデン宮廷歌劇場管弦楽団の300周年記念として「ローエングリン」第一幕の抜粋が楽長ワーグナーの指揮により演奏されます。さらに全曲公演もドレスデンで決まり、舞台装置も発注していました。

 しかし翌年ドレスデンで民衆による革命が起きます。当時のヨーロッパではフランスで2月革命により共和制が成立したように、市民による革命運動が各地で頻発していました。ワーグナー自身もアウグスト・レッケルやミハイル・バクーニンといった革命家と親交を結び、ドレスデンでの革命の指導者として参加します。しかしその革命は失敗に終わり、ワーグナーは革命の首謀者としてドイツ全土に指名手配されます。このため予定されていた「ローエングリン」のドレスデンでの初演は中止されてしまい、初演のめどは全く立たなくなります。

 ワーグナーは身内やリストら友人の協力により、スイスのチューリヒへと亡命します。1862年に恩赦が得られるまでワーグナーは13年間祖国の土を踏むことはできませんでした。

 そんな中、ワーグナーは何とか「ローエングリン」の初演を実現させようと画策します。当時のチューリヒの音楽環境ではとうてい実現は不可能だったため、ワーグナーはワイマールにいるリストに総譜を送ります。その際の手紙には「僕がお願いできるのは君しかいないのだ。君以外の何人にも僕はこのオペラの上演を委ねるつもりはない。君には僕もこの作品を最も完全な最も喜ばしい安心感を以って渡すことができる。」とリストへ絶大な信頼を寄せています。

 実際、リストはワーグナーが借金で困って自身の歌劇の作品を彼に売ろうとした時に、友人間でそのようなことをするのは良くないと断ったり、スイスへの亡命の際にも旅費を支給し、その後も経済的援助をするなど親身になってワーグナーを支援しました。

 ワーグナーからの依頼を受けたリストは、政治犯ワーグナーの作品を上演するという困難にもかかわらず、この作品を国家的な文化事業に並ぶものにしようとし、ゲーテ生誕101周年記念日に初演が行われるよう段取りをたて、それはついに実現しました。

 ワーグナーは変装してでも初演に立ち会いたいと願いましたがリストに戒められ、当日はスイスのホテルで時計を手に初演の舞台に思いを馳せました。

 初演はワイマールの宮廷劇場のオーケストラが少人数だったこと、歌手の技術が追いつかなかったことなどが原因で、それほどの成果は得られませんでした。しかしその後上演を重ねるにつれ急速に人気を得ていきます。ちなみにワーグナーがこの作品を実際に目にするのはそれから11年後の1861年のウィーンでの上演です。

 初演を指揮したリストはワーグナーへの手紙で「君の『ローエングリン』は始めから終わりまで崇高な作品だ。多くの場所で私は心から涙を流しさえした。」と絶賛しました。リストに対してさらに信頼を深めたワーグナーは後に「ローエングリン」の総譜をリストへ献呈し、その表紙に「もう一人の自分に」と書き記しました。

◎作品について
  前作「タンホイザー」によって伝統的な番号オペラの形式を棄てたワーグナーですが、劇の進行を止めるようなアリア的な場面も含まれていました。この作品でも「エルザの夢」や「聖杯語り」のようにアリア的なものはありますが、前作と違ってそれらは全て進行上欠かせないものであり必要最小限にとどめられています。また合唱は歌を歌うといったものから台詞を語るものへと変化しています。この作品において古いオペラの形態は極限まで取り払われたのでした。

 さらに第2幕のオルトルートとテルラムントの二重唱に代表されるように、この作品には従来の歌唱とは全く違った音楽的対話ともいうべきものが初めて見られ、当時としては非常に革新的な技法でした。

 ライトモチーフの使用では、前作品までは具体的な事象や台詞を補助する意味での単純な感情表現にとどまっていましたが、この作品では初めて本格的な心理描写が用いられ、台詞には現われない心理を音楽で表現することを可能にし、より奥深い作品を構想することが可能になりました。

 以上のような斬新さから、初演後は多くの人がこの作品をオペラと認めることを躊躇し、歌劇を超えた音楽作品と受けとりました。
そしてついに次作「トリスタンとイゾルデ」においてワーグナーの作品はオペラという枠を超え、一般に「楽劇」といわれているものに発展していくのです。

 この作品はワーグナーの作品のなかでは「パルジファル」とならんで神秘的な作品ですが、「パルジファル」がワーグナー晩年の円熟した技法により書かれた重厚で荘厳な印象をあたえる神秘性なのに対し、「ローエングリン」の場合は目が眩むほどの輝きをもった清新な神秘性をもっています。

 この特徴に大きな役割を果たしているのがオーケストラで、特にヴァイオリンパートはこの世のものとは思えないほどの響きを生み出しました。特に第一幕への前奏曲はその極致ともいえるもので、しかも楽器を高音のものから低音のものへと移らせながら、その変わり目をオーバーラップさせることにより滑らかな移り変わりを実現しています。このためこの前奏曲は天上から地上へ何か降って来るような感じを抱かせ、これほど美しい前奏曲は他にないのではないかと思えるほどです。

 この第一幕の前奏曲については多くの人々がその印象を記しており、リストは「我らが魂を地上の生よりも高次の尋常ならざるものに導く呪文、聖堂の得も言われぬ美」とし、チャイコフスキーは「光と真実と美の王国へ我らを導くもの」と記しています。

 この作品を書き始めた頃、ワーグナーは友人のアウグスト・レッケルの影響もあり元来の革命思想の色をより鮮明にしていきます。パリのオペラ座での失望感がそれを助長したのか、ワーグナーは社会は絶望的な状況に瀕していることを強く感じ、社会のシステム自体の改革が急務であると思うようになります。ワーグナーは財産や利益の平等分配には反対していたものの、金をあつかう仕事をしている銀行家や高利貸は悪魔的であると酷く嫌い、金の多少を支配の基準とするのではなく、純粋な精神によって頂点に立つものを王とする社会を理想としていました。

 また、社会の革命を成し遂げるには劇場も改革しなければならないとし、自らの地位の向上や楽団の待遇改善などに努めます。しかし、相手は宮廷の劇場だけあってワーグナーの申し出はなかなか通りませんでした。

 このようなワーグナーの思想や状況は「ローエングリン」に強く表れています。ローエングリンは自らの素性を尋ねてはならないことをエルザに約束させ、絶対的な信頼という精神的愛によって結ばれようとしますが、エルザは結局お互いの名を呼び合いたいという形式的愛への欲求を断ち切れず、素性を尋ねてしまいます。これはエルザを通して形式主義的な社会を表し、ローエングリンを通してワーグナーが理想とした精神的なつながりの社会を表しているとも言えます。そしてこの結末を悲劇的なものにすることにより、当時の社会に大きな疑問を投げかけるかたちとなっています。

 また、ローエングリンが聖杯城の騎士であることを考えれば、ローエングリンはキリスト教本来の姿であり、そのローエングリンが素性を名乗るという形式的理由でエルザのもとから去っていくというのは、装飾や典礼にこだわる当時のキリスト教の教条主義を批判しているとも受取れます。

 またローエングリンが人間社会から結局去っていく点は、自らの思想がなかなか受け入れられない辛さを表現しています。

 この作品以降ワーグナーは楽劇という独自の芸術を生み出しますが、このような革命思想は後の「ニーベルングの指環」でよりはっきりと雄弁に表現されていきます。

 こういった作品の意義は別として、とにかくこの作品は輝かしく、崇高で繊細な旋律が多く詰まっています。前述の第一幕の前奏曲はもちろんのこと、ローエングリン登場の場面、第ニ幕の「信頼の動機」、婚礼の合唱、第三幕の「聖杯語り」など独特の神秘性を持っています。また第三幕の前奏曲は勇壮で有名な曲でもあります。

 最後に第三幕の「聖杯語り」はローエングリンが自らの素性を名乗るという最大のクライマックスですが、この箇所の後半部分はカットされるのが一般的です。これはこの箇所が間延びしてしまうという理由でワーグナー自身が完成後にカットを指示したためで、初演もこのかたちで演奏されました。

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