舞台祝典劇「ニーベルングの指環」
(「ラインの黄金」初演1869年バイエルン宮廷歌劇場/「ワルキューレ」初演1870年バイエルン宮廷歌劇場
「ジークフリート」初演1876年バイロイト祝祭劇場/「神々の黄昏」初演1876年バイロイト祝祭劇場)
◎作品の成り立ち
1.作品の構想
この作品の主要素材となったのは中世ドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」、北欧神話の「エッダ」「ウェルズンガ・サーガ」です。これらをワーグナーがいつ頃読んだのかは定かではありませんが、当時まだ無名だったワーグナーがパリで貧困生活を送っていた頃から徐々に構想されていったようです。
しかし当初から4部作にもなる大作を考えていたわけではなく、最初は「ジークフリートの死」というジークフリートを主人公とした単独の作品を考えていました。ドレスデンに戻ったワーグナーは1848年に「ジークフリートの死」の散文を完成させ、早速自宅に友人たちを招いて朗読会を開きますが、俳優で演劇学者のエドアルト・デフリーントから、ドラマの前史の詰め込みすぎを指摘されます。ワーグナーもその忠告に同意し、その前史にあたる物語も劇にする必要性を感じます。
やがてドレスデン革命によりスイスへの亡命を余儀なくされたワーグナーはチューリヒに居を構え、作曲よりも著作の方に精力を注ぎます。この時代に書かれた「芸術と革命」「未来の芸術作品」はワーグナーの社会観とそれに対する芸術の役割が述べられており、この考えは生涯を通して変わることはありませんでした。
そんな中、ワーグナーは百科事典に書かれてある「オペラ」の項に書かれている説明を読み、自身の考えとはかなり違うことを知ります。そこでワーグナーは「オペラとドラマ」という本を発刊し、音楽劇における詩と音楽の関係、神話、ライトモチーフなどについて論じます。
このように自身の考えを整理してみることによって、以前指摘されたように「ジークフリートの死」には前史を語るべき作品がさらに必要であることを実感したワーグナーは「若きジークフリート」を構想します。しかしそれでも不十分に感じたワーグナーはその年のうちに「ラインの黄金の強奪」を構想し、さらにこの作品と「若きジークフリート」との間に「ワルキューレ」という作品を構想します。
その後「ラインの黄金の強奪」は「ラインの黄金」に、「若きジークフリート」は「ジークフリート」に、「ジークフリートの死」は「神々の黄昏」へと改題され、こうして「ニーベルングの指環」4部作の構想が出来上がります。
しかし、この作品を劇場が取り上げてくれる見込みは全くなく、ワーグナーはかねてから抱いていた、自作を上演するための劇場建設の必要を強く感じるようになります。
それは掘立小屋の劇場に、最適の歌手を集め、上演は従来の特権階級の娯楽としてではなく、入場無料で自作を三回上演し、そのあと劇場をとりこわして終わりにするというものでした。さらに既存の劇場のシステムを変革するには革命が必要であるとし、革命の戦いの廃墟のあと、この劇場で作品全曲を上演することにより、革命に参加した人々にこの革命の最も高貴な意味を教えるというものでした。
このような上演は当初亡命先のチューリヒにて行われることが計画されていました。実際1853年にはチューリヒにて三日間にわたってワーグナー音楽祭が開催され、これに気を良くしたワーグナーはこの作品をチューリヒで初演することを計画し、リストも援助を約束したのです。
また同年には4部作通しての台本朗読会が開かれ、好評を博します。スイスの小説家ゴットフリート・ケラーはこの物語について「根源的だが古代悲劇の精神によって浄化されている。」と感想を述べています。
一方、作曲の方も「ラインの黄金」から順次進められていき、1856年までには「ジークフリート」第二幕まで完成します。
しかし、実際のところ当時のチューリヒは地方都市のひとつに過ぎず、音楽的水準はワーグナーの満足に全く足るものではありませんでした。作曲を進めるうちにそのことを痛感していったワーグナーは、この作品の上演はチューリヒでは不可能であると悟ります。
そこでワーグナーは上演の見込みのないこの大規模な作品とは別に、当初短い劇として構想されていた「トリスタンとイゾルデ」のほうが上演の見込みがあったためそちらに集中し、「ジークフリート」第二幕にて作曲を中断することを決心します。
中断期間中、ワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を完成させ、これらは当初の構想を超えた大作に仕上がり、作曲技法も熟練されていきます。
一方ワーグナー自身の身辺もその間に奇跡的な好転をし、バイエルン国王ルートヴィッヒ二世の庇護を得て、「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」はバイエルン宮廷歌劇場で初演されます。
ワーグナー作品に心酔するルートヴィッヒ二世にとっても、未完となって作曲が中断されている「ニーベルングの指環」上演は念願であり、ワーグナーと初めて会ったときに要請したのもこの作品を完成させることでした。
さらに国王はこの作品を上演するための祭典劇場をミュンヘンに建設することを決定します。上演の見込みが全くなかった「ニーベルングの指環」上演計画がついに具体案となって動き始めたのです。(この劇場建築計画はのちになって議会等の圧力もあり消滅しました。)
こうしてワーグナーは12年間の中断のあと1869年に「ジークフリート」第三幕から再びこの作品の作曲を再開したのです。
2.バイロイトでの上演
ワーグナーはこの作品はドイツ民族の祭典となるべきもので、これを観た人こそ革命の意味を理解し、ワーグナーを理解するとして、全4部作は一挙に上演したいと考えていました。
しかし、ルートヴィッヒ二世は全4作完成まで待ちきれず、既に完成している「ラインの黄金」「ワルキューレ」の先行上演を命じます。ワーグナーはこれをなんとか阻止しようと、劇場側や国王と激しいやりとりをしますが、版権は国王の手にあったため阻止することはできませんでした。
こうして1869年に「ラインの黄金」、1870年に「ワルキューレ」がバイエルン宮廷歌劇場で初演され、成功を収めこの作品に対する世間の関心は高まります。
しかしワーグナーはこの上演はもともと反対していたもので、演出の面でも自らの意図が表現されていなかったことから不満でした。
国王とも対立したワーグナーは、国王や劇場の策謀に惑わされることなく理想の上演を実現するには、自身の力で自作のための劇場を作るしかないと決心します。
そこでワーグナーは劇場建設の場所について検討し、指揮者ハンス・リヒターの提案によりバイロイトの地が浮上します。バイロイトはワーグナーもかつてマグデブルクの劇団の楽長をしていたときに訪れ、いい印象を持っていました。しかもそこには古いすばらしい辺境伯歌劇場があり、この劇場を改造すればうまく使えるかもしれないと思ったのです。
しかし実際その劇場をみると、舞台が小さすぎて、「ニーベルングの指環」上演には堪えられないものであることが分かりました。そこでワーグナーは各地のワーグナー協会から提供される資金や、自ら開催した演奏会の利益により全く新しい劇場を作ることにし、2年後の1873年にその劇場で「ニーベルングの指環」全4作を全曲上演することを正式に発表します。
バイロイト市側もその計画に賛同し、祭典劇場のための土地を無償にて提供することとなります。建設予定地は三度変更されますが、最終的には町の中心から少し離れた辺りを一望できるような小高い丘陵の上と決定します。
さらにワーグナーは自費にてバイロイト市内の宮廷庭園に面した土地を買い取り、そこに自邸を建てることにします。ヴァーンフリートと名付けられた、この邸はワーグナーの生涯で唯一の持ち家であり、後世までワーグナー家の館として受け継がれていきます。
一方、作曲は完成するのが早すぎるとルートヴィッヒ二世から上演の圧力がかかってくるので、わざと遅らせてバイロイトの上演直前に完成するようにしました。「ジークフリート」は既に出来上がっていたのですが、ルートヴィッヒ二世には総譜を送りませんでした。そしてバイロイトでの全4部作の上演は「国民的な舞台祝典劇」になり、「その指導は全て自分の手に委ねられるべきだ」と暗に国王の単独上演の意向に抵抗を示します。
1872年に劇場の定礎式が行われ、それを記念して市内の辺境伯歌劇場ではベートーベンの第九交響曲がワーグナーの指揮で演奏され、その演奏は史上に残る名演奏と絶賛されました。以来バイロイト音楽祭の記念の年にはベートーベンの第九交響曲が演奏されるのが伝統となっています。
こういったなかで、上演練習も1873年から続けられていき、歌手もワーグナーがドイツを駆け回って選び確保されました。また既成概念に捉われない舞台装置を望んだワーグナーは、劇場関係者以外からヨーゼフ・ホフマン教授を招きます。
最後まで問題となったのが資金の問題でした。劇場建設費と上演費用を全額調達するというのは到底無理なことで、結局ワーグナーはルートヴィッヒ二世から借金というかたちで援助を受けることになります。このため入場無料という当初の理想を実現することはできなくなりましたが、音楽祭の実現は確実なものとなります。
作曲はバイロイトでの練習中にも続けられ、後にワーグナー指揮者として名を残すアントン・ザイドルやフェリックス・モットルも写譜作業に参加し、1874年に完成します。さらに1875年には、これまでの歌劇場とは全く違った特徴をもつバイロイト祝祭劇場が完成します。
そしてついに1876年ワーグナーの長年の悲願だった第一回バイロイト音楽祭は開催されます。ルートヴィッヒ二世やドイツ皇帝ヴィルヘルム一世、ブラジル皇帝ドン・ペドロ二世といった名士をはじめ、作曲家でもリスト、ブルックナー、チャイコフスキー、グリーグ、サン=サーンスといった錚々たる顔ぶれが集まりました。
3.上演の評価
しかし、その上演は圧倒的な成功を収めるというわけにはいきませんでした。世間の評判は「ラインの黄金」「ワルキューレ」は先にバイエルン宮廷歌劇場で単独初演された上演のほうが良い出来だったというものでした。この初演が国王が全面支援した上演だったのに対し、自分の力で始めたバイロイトの上演は財政面で苦しく十分な予算がなかったのです。
さらに外部から招聘したヨーゼフ・ホフマンがデザインした舞台美術が、従来のオペラの域を出ない平凡なものだったことも要因としてあげられます。
その後の公演も「ジークフリート」はこの音楽祭で最大の成功を収めたものの、「神々の黄昏」では「長すぎる」「同じことが何回も出る」といった批判が出ました。
さらに「ラインの黄金」「ワルキューレ」の上演の評価が今ひとつだったため、「ジークフリート」以降は観客も少なくなり、赤字額は予想以上の大きな額になっていきます。
ワーグナーもこの上演にショックを受け、コージマに「死んでしまいたい」と洩らすほどふさぎこみます。
しかし一部の人はこの上演に深い感動を示し、その意義について高く評価しています。サン=サーンスもその一人でした。
また芸術史家コンラット・フィードラーは、この作品の背後に自然と人間との根源的な経過が跡づけられていることを見取り、音楽は台詞と共働して劇的表現を目指しているのだとし、「ひとつの自立的な形式を得ようとする格闘はそれ自体芸術的なものとして認められねばならない。バイロイトの上演はこのような格闘が生きている。」としました。
さらに、ウィーンの宮廷劇場歌手アンジェロ・ノイマンはこの作品を各地に広める運動を始めます。
ワーグナーもやがてショックから立ち直り、この上演で見出した多くの訂正点を訂正して、次回のバイロイト音楽祭にて今度こそこの作品の真の姿を示そうと意気込みます。
しかし、財政上の赤字は莫大なもので、結局「パルジファル」の上演に充てられた1882年の第二回音楽祭ではこの作品は上演されず、1896年の音楽祭まで上演されることはありませんでした。しかしその時には既にワーグナーは亡くなっていたのです。
◎作品について
この作品の構想は1848年ワーグナーが35歳の時に始まり、完成したのは1874年でその時ワーグナーの年齢は61歳になっていました。つまり壮年期から老年期にわたる長い年月の経験がこの作品に反映しており、この作品はワーグナーの人生の縮図とでもいうような様相を呈しています。
「ジークフリート」のなかでジークフリートがミーメに自分の父親が誰であるかを聞くのは、自分の本当の父親が誰であるか疑問を持っていたと思われるワーグナー自身に重なりますし、第二幕でジークフリートが「人間の母親は子供を産むと死んでしまうのだろうか」と言う場面も、ワーグナーが最も愛していた長姉ロザーリエが1838年に産後に死んだことに重なってきます。
また、第一幕の鍛冶の場面の金床を叩くリズムは亡命したチューリヒの住居の隣の鍛冶屋のイメージからきており、第二幕の小鳥のさえずりはヴェーゼンドンク邸の隣家「かくれ家」に住んでいたときに聞こえたさえずりをイメージしたものだと言われています。
さらに「ワルキューレ」における異母兄妹の恋愛は、すでに1841年に構想された5幕のオペラ「サラセンの女」でも扱われており、これに人妻ジェシー・ローソーとの駆け落ち計画やマチルデ・ヴェーゼンドンクとの道ならぬ恋といった自身の経験が結びついて、この作品に結実しています。
こういった事象だけでなく、この作品に込められている思想も、ワーグナー自身を余すところなく表現しています。
ワーグナーは30歳前後からプルードンやバクーニンの影響を受け、金銭や私有財産が偏重されている愛のない社会を批判し、そういった社会は焼き尽くされるがいいと後年になってからも度々発言していきます。これはまさにこの作品の結末そのものといえるでしょう。
そしてそのような社会を救うのが革命的な総合芸術であり、その芸術は金持ちの娯楽であってはならないと論文で説いています。
またこれまでの作品でも表現されてきたように、社会のシステムに縛られることなく、人間的な精神を尊重するという姿勢は、ここでも先程の「ワルキューレ」での異母兄妹の恋愛や、彼らの間にできた英雄ジークフリートに表現されています。
さらに哲学者ショーペンハウアーの著作「意志と表象としての世界」を読むことによって、ワーグナーはこの世における唯一の救済は、生命への意志の究極の否定、つまり死であることを認識し、その考えに傾倒します。この考えは自らの欲望が招いた混乱を終息させるため、その欲望を滅却しひたすら終末を願っているウォータンの姿と図らずも重なるものだったのです。
ワーグナー自身も「私はショーペンハウアーを読んだのち、ニーベルンゲンの詩を観察すると、驚いたことに、今学説において私をこのようにとらえたものが、私の詞的構想においてはずっと前から親しんでいたことに他ならぬことを認識した。こうして私は、私のウォータンをさえ理解し、深い感動を受けてショーペンハウアーの本をあらためて一層詳しく研究しようとした。」と述べています。(※1)
こうしたこともあって、この作品の主役は当初のジークフリートからウォータンへと移っていき、作品もより思索的な場面が多くなり、深みを増していきました。「ジークフリートの死」は「神々の黄昏」へと改題されたのもそのためです。
作曲技法の面でもライトモチーフは事象面と心理面を表すものとして、ワーグナーの作品中もっとも徹底的に駆使されており、その数は200種類にものぼるとも言われています。
ワーグナーはこのライトモチーフを類型化して使ったわけではなく、その音楽自体が発するメッセージを観客に感じ取らせようとしたのですが、結果的には極めて体系化されたものとなり、後年の研究家によってそれぞれのライトモチーフに名称がつけられていきました。
この作品は全四部作にものぼる大作とあって、前後の作品や場面との音楽での関連づけもこの作品の大きな魅力となっていますが、これにもライトモチーフが大きな役割を果たしています。
例えば「ワルキューレ」と「ジークフリート」のそれぞれの第一幕フィナーレは、旋律はよく似ているものの、前者は短調、後者は長調と対照的になっていて、親子でありながら対照的な運命をたどるジークムントとジークフリートをよく表しています。
また「ワルキューレ」では第一幕は地上界を描き、「逃走の動機」が流れるなか幕が降ります。一転して第二幕では神々の世界が展開されますが、再び「逃走の動機」が流れると一瞬にして場面は地上界へと戻り、同時にこのライトモチーフは一幕のフィナーレ以降の地上界で何が行われていたかを教えてくれ、時間の空白を埋めてくれるのです。
さらに「神々の黄昏」第三幕におけるジークフリートの武勇伝から葬送行進曲までのライトモチーフの使用は非常に効果的かつ綿密で、前三作の回想シーンにあたるこの場面で聴き手に大きな感慨を与え、全4部作の最後の作品として堂々たる展開を示します。
以上のように、この作品はワーグナーの作曲活動の集大成とでもいうもので、また、人間の権力への欲求、産業化した社会、真実の愛、といった根源的な部分を見つめ直す、時代を超えた作品であります。
ワーグナーは初演の出来に絶望しましたが、今日でも様々な演出が、この作品から現代社会の様々な問題を表現していることからもわかるように、この作品はまさにワーグナーの望んだ「未来の芸術作品」だったのです。
(※1)ワーグナーは「ニーベルングの指環」台本完成後、早速ショーペンハウアーへそれを送っています。ショーペンハウアーはこの作品について「これこそ未来の芸術作品というものなのであろう。」と述べています。